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『先人の心を継ぎ、新しい発想を生かす』
加藤明徹/甘露山妙雲寺住職
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開湯1200年を迎えた塩原温泉で、平安時代から
800年以上の歳月を塩原と共にあった妙雲寺に、明徹(みょうてつ)和尚を訪ねました。
「昔から一町一寺と言って、地域と寺は深い関係にあります。
妙雲寺は、800年くらい前に平重盛の妹とも叔母とも言われる妙雲禅尼が開創したのがはじまりです。
重盛が亡くなった後、重盛の念持仏である釈迦像を持って下野国宇都宮城を頼った妙雲禅尼を、宇都宮の殿様は高原山の麓に匿いました。今でも高原山の一番高い所を釈迦ヶ岳と言うのは、この時に釈迦像を安置したのが由来です。
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その後、塩原の山中に移ったと言われていますが、当時塩原は温泉が自噴し、会津へ行く街道筋ということで宇都宮城の領地でした。塩原の奥の小滝に仏岩という岩があって、妙雲禅尼はその下に庵を結び、毎夜、月
を見ては京の都を懐かしんだと言います。その時、今お寺のある山の上から月が出て来たので、この裏山を吐月峰(とげつほう)と言ったと伝わっています。
また、お寺の裏手の沢を平井沢と言いますが、昔は飛来井沢(ひらいさわ)と書きました。伝説では、小滝の仏岩に安置した仏様がここへ飛んで来たので、妙雲禅尼はここへ庵を結び、建久五年(1194年)一月五日に亡くなるまで暮らしました。
妙雲禅尼が亡くなった後150年間、地元の人々が仏像を守って来ました。大同妙哲和尚がここを開山し甘露山妙雲寺と称し、その後二、三代は住職が居ましたが、再び江戸中期まで無住でした。800年のお寺の歴史の中で、半分は住民が本尊を守って来たのです。
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江戸中期の落雷によるお寺の焼失の後、この地域1万人の人々の喜捨で元文五年(1740年)に再建され、今も当時の姿が残っています。四隅の柱は栗、丸い柱はケヤキ、力のかからないところは杉が使われていて、充分でない材料を工夫しながら使った様子が分かります。彫刻は、今市や鹿沼の東照宮を彫った人たちによると言われ、まだ岩絵具が採れた頃だから彩色されています」
「塩原を流れる箒川は、昔は法喜川と書いたんですが、人々が仏法を聞いて喜んだことから来ています。昔の人は良い名前を付けるなぁと思って。伝説にある吐月峰や飛来井沢だけでなく、昔からある呼び名や地名は地域の人たちの発想で、それを大事にするという感情から生まれたものです。
塩原1200年の歴史を考える時、こうした名称に込められた先人の心を引き継いで行くことも大切だと思います。その上で現代の新しい発想が生まれ、人の交流や新しい動きが出て来るのだと思います。地道であっても継続することが大切です」
明徹和尚のお話を伺い、昔の人の思いをちゃんと感じて、意味を理解しながら、地域の文化を次世代へ伝えて行きたいと感じました。
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※このインタビュー記事は、2006年8月5日発行の「那須野をむすぶコミュニケーションペーパーひなた」に掲載されたものです。

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